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渋谷代衛さんのご先祖。
2013.06.18
昨年度、養老町教育委員会が冊子にまとめた、養老町大野出身の渋谷代衛さんですが、この渋谷家の由来が、渋谷金王丸という人物にあると伝わっていることを教えていただきました。
養老町で渋谷金王丸といえば、まず思い出すのが、平清盛に敗れ、落ちのびる源義朝とともに、養老町の源氏橋から舟に乗った人物ですよね。
ずいぶん前のことなので、不確かな部分もあるでしょうが、養老町大野で庄屋を務めた渋谷家のご先祖様が、養老町に関わりのある渋谷金王丸かもしれないことを知って、なんだかうれしく思いました。
第14回「家族の絆 愛の詩」の全国募集を開始しました。
2013.06.17
養老町では、平成12年度から、親と子が心豊かにふれあう町を目指しており、その一環として、「家族」をテーマにした詩の募集を続けています。
今年度で、14回目を迎えました。
応募の詳細については、養老町のホームページに掲載していますので、みなさんも、この機会に、ぜひ、家族への素直な思いを詩に託してみてください。
皆さまからの、心温まる作品を、お待ちしています。
「タギゾウくんのクイズラリー」の準備。
2013.06.14
養老町教育委員会では、養老町の文化遺産をもっとよく知ってもらうために、今年度も「タギゾウくんのクイズラリー」の準備を進めています。
このイベントは、夏休み限定の企画で、期間中にいくつかの文化遺産を訪れクイズに答えると、タギゾウくん特別賞がもらえるというもの。
ちなみに、今年のタギゾウくん特別賞は、女神様をあしらったものにする予定です。
詳細については、夏休み前に、改めて当ホームページとチラシで広報いたします。
参加者に制限は設けませんので、ぜひ、楽しみにお待ちください。
養老町役場旧庁舎。
2013.06.13
昭和46年(1971)4月に、現在の養老町役場庁舎が竣工するまで、養老町の役場庁舎は、現在の役場南駐車場の位置に建っていました。
上の写真は、そんな養老町役場旧庁舎が写っている貴重な写真。
昭和39年(1964)に、町制10周年記念行事として行われた鼓笛隊パレードを撮影したものですが、後ろの木造2階建の建物が旧庁舎になります。
火の見櫓や、玉泉堂酒造の塀など、思ったほど、今と変わりませんね・・
山田貞策さんの情報収集4。
2013.06.12
今日、山田貞策さんについて、ご子孫の方から、新たにお話を聞く機会が得られました。
ありがとうございます。
福島に長く住まわれていた貞策さんの長女の血筋に連なるお家だったので、八沢浦干拓の話や、それに伴う写真をたくさん見せていただくことができたのですが・・
そんな中に、1枚だけ養老町内で撮影された写真が混じっていました。
上の写真が、その1枚になります。
養老町大巻の山田貞策さんの屋敷で、撮影されたものでしょうね。
詳しいことは分かりませんが、現在、大巻薩摩工事役館跡にある平田靱負像と、現在、神奈川県にある灯籠が、いずれも昭和9年(1934)9月に建立されていたことを思うと、そのとき記念に撮影されたもののような気がします。
といっても、この写真を見てはじめて、平田靱負像と灯籠がセットで建立された可能性に気づいたので、他に見落としがないか、もう少し時間をかけて調べてみようと思います。
養老町発足10周年記念式典。
2013.06.11
今日、養老町発足10周年記念式典のアルバムを見る機会がありました。
当然、昭和39年(1964)に行われているのですが、式典の日が11月17日になっていました。
養老改元の日に行われたということですよね。
上の写真は、そんなアルバムの中にあったうちの1枚。
平安・鎌倉・元禄の3つの時代に分かれて行った仮装行列の様子を撮影したもののようなのですが・・
よく見ると、右隅に、先週紹介した、元位置のよく分からなかった道標が写りこんでいます。
貴重な手掛かりですよね。
さっそく、この写真がどこを撮影したものなのかを確認し、道標の正確な元位置を明らかにしたいと思います。
不老ヶ池のホタル。
2013.06.10
養老公園の千歳楼のそばにある不老ヶ池で、ホタルが見頃を迎えています。
地元の方から、6月になるとホタルがでるとは聞いていたのですが、思ったよりもたくさんいますね。
ちなみに、上の写真を撮るために、3度現地に足を運んだ経験からは、20時くらいが一番きれいな気がします。
このホタルの情報は、まだ「タギゾウくんの養老ナビ」に未登録ですが、不老ヶ池は登録してあります。
ぜひ、天気が良いうちに、見に行ってみてください。
金草川のヒメコウホネ。
2013.06.07
金草川のヒメコウホネがキレイに咲きはじめましたので、この情報を「タギゾウくんの養老ナビ」に公開しました。
まだ見たことがない方は、ぜひ行ってみてください。
あと、未確認ですが、津屋川にも、ヒメコウホネが咲いているとの情報が・・
近いうちに、こちらも確認に行こうと思っています。
かえる草。
2013.06.06
この時期、養老町の田んぼの畦には、「かえるぐさ」と呼ばれる草がたくさん生えています。
本来の名称は「かずのこ草」なのですが、穂の先端部分だけを少し残し、それをカエルの前にちらつかせると、カエルがエサと勘違いして食いつくことから、この名前がついたみたいですね。
ちなみに、私がお話しを伺った方は、少しなまって、「げえるぐさ」と呼んでいました。
おもしろそうだったので、さっそく試してみたところ、思いのほか、よく食いつくので、ビックリしました。
・青いかえる草を選ぶこと
・穂の先を小さくすること
・カエルの目にあわせ、少し横からアピールすること
・小刻みに震わせること
・アマガエルを狙うこと
以上の5点を大切にすると、成功率があがります。
最近は、この遊びをする子どもはいないみたいですが、とっても面白いので、ぜひ試してみてください。
養老公園道の道標。
2013.06.05
養老町役場の西側、電話ボックスのそばに、「右 養老公園道、左 岐阜大垣道、すぐ西京道、明治14年巳8月建立 河野佐七 田中長次 渋谷孫平 川口宇兵衛 多賀太兵衛」と刻まれた道標が建っています。
養老公園開設の翌年に建立されているので、この養老公園道とは、たぶん飯田から直江渡しを経て、高田へ入る養老街道のことでしょうね。
ただ、この道標の詳しい元位置の情報はなく、いつから役場の横にあるのかも分かっていません。
さらに、建立した人たちの名前にも、ちょっと覚えがないです・・
とりあえず、いろんな人に、話しを聞いて、手掛かりを探したいと思います。
大跡のすいれん。
2013.06.04
養老町大跡のすいれんが、きれいな花を咲かせています。
地元の方に場所を教えていただいたのですが、現地を訪ねてみて、村の中の水路に咲いていることに驚きました。
池のそばなどでは、なかなかこんなに間近でみることはできませんよね。
なぜ、ここに、こんなにたくさん咲いているのか不思議に思ったので、さらにたずねてみると、昔、ここが大跡城の堀だったということを教えていただきました。
それで、すいれんの生育に適していたんですね。
まだしばらくは見頃が続きそうなので、この情報を「タギゾウくんの養老ナビ」に登録しました。
ぜひ、近くで見てください。
田んぼのドジョウ。
2013.06.03
今日、遺跡の調査をしている田んぼで、体長が8cmほどの小さなドジョウを見つけました。
ちょうど今が、産卵の最盛期ですし、孵化してからそんなに経っていないでしょうね・・
ちょっとサギが多いですが、このあたりの田んぼは、水はけがあまりよくないので、ドジョウにはよい環境なんだと思います。
ただ、この田んぼには、もうじき建物が建つので、放すのは、隣の田んぼにしました。
唐谷のオオバアサガラ。
2013.05.31
養老公園の唐谷沿いで、オオバアサガラ(大葉麻殻)という花を見つけました。
房になって咲いているので、はじめは藤の花かと思ったのですが、なんだか、花の形が違いますよね。
谷や渓流などを好むようなので、年間を通して水量が安定している唐谷は、生息しやすいのかもしれません。
ちなみに上の写真は、今週の月曜日のものです。
もうそろそろ見頃になっていると思いますので、養老公園に行かれた際には、ぜひこちらも探してみてください。
吉田神社入り口の石仏。
2013.05.30
養老町豊にある吉田神社の入り口に、頭部の欠けた石仏があります。
前から、不思議に思っていたので、地元の方にお話を伺ったところ、元は境内の井戸のそばにあったものを、現在の位置に移したことは分かったのですが・・
正確な元位置や、ここに移された時期など、詳しいことはわかりませんでした。
このあたりは遺跡なので、ひょっとしたら地中から出土したのかもしれませんね。
吉田神社周辺は、これからホタルが姿を見せるようになるので、ホタル狩りがてら、もう少し、聞き取りを続けようと思います。
渋谷深平さんのお墓。
2013.05.29
養老町大野の覚林寺が管理する墓地に、渋谷代衛さんの三男である理兵衛さんや、かもさん(理兵衛の妻)、深平さん(理兵衛の長男)、そのさん(深平の妻)、おあささん(深平の娘)の名が刻まれたお墓があります。
集中豪雨が起きた、昭和34年(1969)8月に建立されたもので、「父理兵衛」と刻まれていることや、深平さんが亡くなられた年が昭和36年であることから、建てたのは深平さんでしょうね。
あまり詳しいことは分かりませんが、元は、覚林寺の境内にあり、平成16年頃に現在の場所に移されたそうです。
深平さんは、渋谷の家を承けておらず、代衛さんをはじめとする渋谷家代々の墓は、名古屋市の八事霊園にありますが、この深平さんのお墓についての情報も「タギゾウくんの養老ナビ」に登録してあります。
ぜひ、一度お参りに訪れてみてください。
弥縫庵逸話。
2013.05.28
渋谷代衛さんが亡くなられてから6年後の明治35年(1902)の11月、四男である孝次さんによって「弥縫庵逸話」という、渋谷代衛さんの逸話集が刊行されています。
これは、代衛さんと一緒に生活していた三男の理兵衛さんが記録していたものを基にしたもので、中には、代衛さんが生前に語ったことや、代衛さんについての逸話、あるいはその人柄など、代衛さんについての貴重な情報がたくさん記されています。
その中でも、私が特に気に入っている逸話が、次男の豊之助さんによって紹介されている、尾張藩の重臣と大垣藩の小原鉄心との間に起きたトラブルを、渋谷代衛さんが機転を利かせて解決した話。
酒の席で、尾張藩が秘密にしていた内容の真偽を、大垣藩の小原鉄心が確認しようとし、その情報源を問い詰められ、渋谷代衛から聞いたと答えてしまうところから、この話ははじまるのですが・・
代衛さんは、このことを尾張藩の重臣に尋ねられた際、「問い詰めた重臣と同格で、数日前に亡くなってしまった方から聞いた」と答えて、問題を解決してしまいます。
代衛さんの人柄だけでなく、尾張藩にも大垣藩にも重く仕えていたことがわかる、おもしろいエピソードですよね。
詳しくは、電子書庫の「郷土のために骨身を惜しまなかった渋谷代衛さん」に掲載してありますが、当然、小原鉄心には大変感謝され、さらに、大垣藩は、この情報が真実であることを知り、大変得るところが多かったようです。
ただ、代衛さんが、息子さん達に、その内容を話すことはなかったみたいですね。
いったいどんな秘密だったのか、とても気になります。
渋谷代衛翁紀功碑除幕式。
2013.05.27
今日、養老公園の唐谷橋の側にある、渋谷代衛翁紀功碑の除幕式次第をみる機会に恵まれました。
この式次第によると、除幕式のスケジュールは、
1.号砲
2.委員長、発起人、故渋谷翁一族着席
3.来賓着席
4.奏楽
5.祓式
6.地鎮祭
7.委員長式辞
8.除幕
9.来賓祝詞演説
10.故渋谷翁一族総代謝辞
11.式終了ヲ告グ
12.来賓その他一同退席
というものだったようです。
しかし、それよりも気になったのが、式の開催日時。
明治36年(1903)3月に建碑されたことは、まず間違いないので、この10月27日正午12時とは明治36年のことであると思うのですが・・
あわせて見せていただいた、明治43年(1911)に発行された西濃人物誌という教科書には、明治41年(1908)のことと書かれていました。
たった2年前のことを間違えるというのも考えにくいですが、建碑から除幕まで5年かかったというのも考えにくいですよね。
もう少し、情報収集を続けます。
養老山地のヘビ。
2013.05.24
5月も後半になり、養老山地の新緑が盛りを迎えています。
そして、これに合わせて、ヘビの活動も、活発になってきましたね。
先週も、たった20分ほど山に入っただけで、3匹見かけました。
ちなみに、その内訳は、アオダイショウ2匹、マムシ1匹です。
まだ、すこし気だるそうにしてましたが、皆さんも山に入るときは、十分に気をつけてくださいね。
あと、生命には関わりませんが、ヤマビルも要注意です・・
越前。
2013.05.23
養老山中を、柏尾谷から北に、東海自然歩道を200mほど歩いたところに、「越前(えちぜん)」と呼ばれている場所があります。
地名の由来は、越前(現在の福井県)から来た入植者が住んでいたことによるようで、越前屋敷跡と伝わる場所には、今も石積みなどが残っているのですが・・
この福井県からの入植者を連れてきたのが、山田貞策さんであるかどうかが気になっています。
というのも、実は、この場所は、山田貞策さんが、秣の滝から用水を引いて開拓を行ったところでもあり、越前屋敷跡以外にも、水路跡や水田跡が残っているからです。
また、貞策さんは、多藝の滝(直江の滝)でも、同じようなことを考えていたみたいですね。
単純に整理すれば、山田貞策さんが、福井県から入植者を連れてきて、この場所の開墾を行ったため、越前と呼ばれるようになったと考えたいところですが、はっきりしたことは、まだ何もわかっていません。
ただ、その一方で、山田貞策さんがこの開拓地に別荘の分譲を進めようとしていたということも新たに分かってきました。
こうしたバラバラに集まってくる情報をどのように考えるか・・
悩ましいところです。
第4の高田祭曳軕。
2013.05.22
養老町の高田祭には、猩々軕、林和靖軕、神楽獅子軕の他に、もう1輌曳軕があります。
名前は、照鱗閣軕(しょうりんかくやま)。
常盤町が所有する曳軕で、子ども歌舞伎用の舞台を備えたものなのですが・・
昭和36年(1961)を最後に、子ども歌舞伎を披露することはなくなり、さらに昭和49年(1974)頃からは、祭りに曳き出されることもなくなっていきました。
そんな経緯で、最近では幻の曳軕となってしまっていた照鱗閣軕ですが、先週の金曜日、軕倉を開けて見せていただく機会が得られました。
ありがとうございます。
これまで白黒写真でしか見たことがなかったので、色が分かっただけでも収穫でした。
ただ、どうやら常盤町は、やむなくこの曳軕と軕倉を取り壊すことを決断されたみたいですね。
今更ですが、もし、昭和50年に他の軕と一緒に、文化財指定されていたならなどと考えてしまいます。