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養老町の成り立ち

岐阜県の南西部に位置する養老町は、その地形境から、時代毎に大きく姿を変化させてきました。
ここでは、旧石器時代から現代に至る養老町の歴史を振り返ってみましよう。
中世まで政治・経済・外交といった諸分野の営みのほとんどは、神仏との共同行為であり、宗教は日常生活と不可分でした。しかし、近世(江戸時代)になると、日常社会からの宗教の分離が進みます。こうした中で、養老山地の山岳寺院は急速に衰退していきました。
また、統一政権の成立による社会の安定に伴い、養老町では堤を用いた河川流路の固定による居住域や耕地の拡大が図られます。しかし、こうした築堤は、一方で天井川の進行や地下水位の上昇を引き起こし、河川の堆積をより下流に向かわせ、結果として築堤地点一帯の低湿地化や洪水の危険性を増大させていきました。そして、養老町には輪中と呼ばれる周囲を堤防で囲んだ村落が形成されていきます。
さらに、こうした築堤は、中世以降養老町の重要な物流の拠点となっていた牧田川の河床も上昇させ、濃州三湊と呼ばれた琵琶湖と伊勢湾を結ぶ最短ルートの一部を担った烏江(からすえ)・栗笠(くりがさ)・舟付(ふなつけ)の3つの川湊を徐々に衰微させていきます。
こうして、治水問題はその深刻さを増し、養老町を含む木曽三川流域の輪中地帯は、水害の大きな原因となっていた木曽三川合流という問題の解決を悲願とするようになります。
この解決に大きな功績を残したのが、遠く離れた薩摩藩(鹿児島県)の藩士たちです。しかし、それは薩摩藩士が望んだものではなく、江戸幕府が薩摩藩の経済力を弱める目的で実施した工事でした。
宝暦治水と呼ばれるこの工事は宝暦4年(1754)2月から翌年3月にかけて行われました。工事の完成までに、80名余りの死者や、約40万両という多額の費用が支出され、薩摩藩はこの治水工事に多くの犠牲を払いました。