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養老町の成り立ち

岐阜県の南西部に位置する養老町は、その地形境から、時代毎に大きく姿を変化させてきました。
ここでは、旧石器時代から現代に至る養老町の歴史を振り返ってみましよう。
弥生・古墳時代に形成された連合国を統一し、社会のルールを法律に変え、国家権力を中央集権的に整備していった時代が古代(飛鳥・奈良・平安時代)です。
古代の養老町は、壬申の乱に深く関わったほか、元正天皇や武天皇の行幸がありました。こうしたことから、前代に引き続き、古代においても当地が重要な役割を果たしたことが伺えます。
この時代の中央集権国家の政策は、集住の管理や自給自足体制の強化による物流への干渉を推し進め、地域のつながりを断ち、それぞれを孤立させて統治しようとするものでした。そしてこの結果、地方は閉じた社会となり、中央のみが国際化していきます。しかしその一方、閉じた社会の中では地縁が発達し、平安時代には地方豪族の力が増し、地方の主体性は強まりました。そして、民衆は既存の枠を飛び出し、時代は中世(鎌倉・室町・安土桃山時代)へと移り変わっていきます。
中世は、日本の前近代において最高の物流の時代であり、海運と河川水運の役割が重視された時代です。
養老町やその周辺には、多くの河川が集中し、さらに関ヶ原を通じて近江へ往来できたため、当時代における養老町の社会的役割は高まりました。そのため、養老町に分布する中世遺跡には、川を意識した立地をとるものが多くあるほか、養老山地に所在する山岳寺院群も最盛期を迎えました。
また、この頃の養老町では、河床が低下し、段丘面と氾濫原が区別された結果、河川の流路が安定しつつありました。このため、当時の地名の中には、室原郷、嶋田郷、多藝庄内大跡、勢至寺、宇田郷など、現代にまで続くものが確認できるようになります。