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養老町の成り立ち

岐阜県の南西部に位置する養老町は、その地形境から、時代毎に大きく姿を変化させてきました。
ここでは、旧石器時代から現代に至る養老町の歴史を振り返ってみましよう。
弥生時代とは日本列島に稲作・青銅・鉄文化が到来し、農業社会が根付いた時代です。養老町の弥生人は、自らが生活した郡単位の自然的なまとまりを軸としながら、多くの政治的・社会的結合(小国家)を形成しました。こうした中で社会の肥大化は進み、その維持が個人の資質に基づく管理能力を超えたとき、新たに社会を維持する仕組みとして古墳が生まれます。
古墳とは、王の墓というだけでなく、王の統治を安定して次の世代に引き継ぐための、王位継承儀礼を行う場としても利用されました。
この時代の養老町では、河川の中・下流域の段丘化が進み、三角州帯が成長したことで、陸地が急速に拡大していました。しかし、現代に比べ、海はまだまだ内陸部に入り込んだままです。そのため、養老町は周辺地域と海でつながっており、太平洋と日本海を結ぶ交通の要衝としても機能しました。
この拡大した三角州帯には、多くの弥生人や古墳人が進出したようで、養老町の日吉地区をはじめ、小畑・室原・多芸東部・養老・上多度地区など、広い範囲で、この時代の遺跡が確認されています。
特に、弥生時代後期から古墳時代初頭の集落跡である日吉遺跡(養老町宇田・豊・中・飯田)では、大量の土器や木器などが発見されました。
他に、養老町橋爪に所在する象鼻山古墳群では70基に上る墳墓が確認され、この時代の養老町が大きな勢力を誇ったことが明らかになっています。中でも前方後方墳である1号墳は、岐阜県で最も古い古墳の一つであり、発掘調査により多様な副葬品が出土しました。