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田中道麿翁の歌碑が建立されました。

2014.02.06

mituimarokahikonryuu.JPG

 

養老町飯ノ木の田中道麿翁顕彰碑の南側に、道麿翁の歌碑が建立されました。

養老町岩道の山口一易さんの寄附に基づくものです。

 

ちなみに、田中道麿翁とは、養老町飯ノ木の出身で、9歳の頃から歌を詠みはじめ、61歳で亡くなるまで多くの作品を残された国学者。

しかし、これまで一つもそれらの歌を石碑にしたものはありませんでした。

 

そのため、この石碑は田中道麿翁の歌を刻んだ全国で唯一のものになります。

 

近くに寄られた際には、ぜひご覧になってみてください。

木造の高田橋。

2014.02.05

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昭和29年(1954)にコンクリート製になるまで、高田橋は木造の橋でした。

 

上の写真は、そんな木造の高田橋が架けられたときの開通式の様子を撮影した貴重な写真。

明治41年(1908)のもので、たくさんの人が見物に来ている様子が伺えますね。

 

ただ、この木造の高田橋は、その後、台風や豪雨によって何度か押し流されており、明治41年以降も、牧田川に橋が架かっていない時期があったそうです。

 

そのため、この牧田川を渡って高田中学校へ通学していた生徒さんたちは、服を脱いで河床をわたらなければならないことがあり、大変な思いをすることもあったみたいですね。

男女関係なく、とくに冬は辛かったそうです・・

 

そんな高田橋ですが、昭和20年代に入ると、水量が多いときには、近くの養老町金屋や直江の人が監視に出て来てくれるようになっていました。

現在も、老人会の方が通学路に立って、児童生徒の安全を見守ってくれていますが、その原形は今から60年以上も前に生まれつつあったんですね。

昭和中頃の象鼻山の木々。

2014.02.04

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昭和30~40年頃の象鼻山は、周囲の木々が低く、山頂に上がると周りがとてもよく見わたせました。

 

そのため、家族みんなで山に登り、山頂でお弁当を広げる風景がよく見られたそうです。

また、木々の数も多くなく、子どもの頃の記憶では、草だらけの細い道を走って登ったみたいですね。

 

上の写真は、そんな当時の象鼻山の眺望と、木々の様子がよくわかる貴重な写真。

詳細な地点は分かりませんが、昔の登山道も東から西に向かっていたので、山頂近くで北西から撮影されたものだと思います。

奥に写っているのは、橋爪付近でしょうね。

 

それにしても、こうして、人の写り込んだ写真で比較すると、改めて当時の松の大きさがそれほどではなかったことや、スギやヒノキのような高木がなかったことが分かりますね。

何もかも昔が良いというわけではないでしょうが、この山頂の眺望だけは、現在の象鼻山に取り戻したいです。

浄誓寺のワビスケ。

2014.02.03

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養老町石畑の浄誓寺で、ワビスケ(侘助)が花を咲かせはじめました。

 

ワビスケ(侘助)とは、椿の一種で、門のそばのイヌマキとともに、養老町の天然記念物に指定されている古木。

どちらも、安政4年(1857)の本堂焼亡に耐えて、現在に残りました。

 

まだ、咲きはじめたばかりで、3月末頃までは見頃がつづくと思いますので、ぜひご覧になってみて下さい。

ただ、境内なので、マナーは守ってくださいね。

養老小唄。

2014.01.31

yorokouta.jpg

 

先日、「養老小唄」の歌詞カードを見つけました。

 

作られたのは昭和5年(1930)1月で、作詞を担当したのは、「シャボン玉」や「証城寺の狸囃子」などで知られる野口雨情(のぐちうじょう)です。

 

詳しいことは分かりませんが、作成の経緯が少しだけ町史に触れられていて、それによると、昭和4年(1929)11月に羽島市の糸井川益一さんに、野口雨情さんと藤井清水さんのお二人をご紹介いただいたみたいですね。

その後、養老保勝会が、ずいぶんとその普及にも努めたようです。

 

ただ、少し心当たりを尋ねてみても、今の養老町に、この養老小唄を踊って歌える人は見つかりませんでした。

 

この歌詞カードのデータを「タギゾウくんの収蔵庫」に保管しておきますので、もし歌える方がおられましたら、ぜひ情報提供をお願いします。

愛宕神社の雲龍図。

2014.01.30

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養老町高田の愛宕神社拝殿の天井には、とても迫力のある雲龍図があります。

 

これは江戸時代の養老町を代表する画家の一人である日比野鶴翁(ひびのかくおう)が描いたもの。

愛宕神社は火伏せの神であるため、水を呼ぶ龍の絵を描いたみたいですね。

 

ちなみに、描かれたのは弘化元年(1844)頃。

元は一枚絵でしたが、後の修復で4つ切りになってしまいました。

 

普段は見ることができませんが、本当に雨を降らせそうな迫力をもっているので、高田祭りなどの機会を捉えて、ぜひ自分の目でご覧になってみてください。

北原白秋歌碑。

2014.01.29

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養老公園の養老神社鳥居そばに、北原白秋の歌碑が建てられています。

 

これは、昭和2(1927)年8月に、北原白秋が養老公園を訪れたときに詠まれた歌を刻んだもので、昭和55(1980)年に建碑されました。

 

ちなみに、北原白秋が養老公園を訪れた理由は、日本新八景選定の審査を行うため。

どうも、昭和2年(1927)4月に大阪毎日新聞社と東京日々新聞社が「日本新八景」選定を行うと発表したのに伴い、養老保勝会が、養老の滝の瀑布の部での上位入賞を目指して、投票運動を行っていたみたいですね。

白秋の養老滞在は、ご子息を伴ってのもので、豆馬亭に3泊されたそうです。

 

結果、養老の滝は、日本新八景の選には漏れたものの、日本二十五勝には選定され、この運動は一定の成果を得ました。

 

ただ、ここで少し気になるのが、石碑に刻まれている歌が「紫蘭さいて いささか紅き 石のくま 目に見えてすずし 夏去りにけり」であること。

養老町で、紫蘭(しらん)をよく見かけるのは6月頃ですが、どんな理由があったんですかね。

大野の初地蔵。

2014.01.28

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養老町には、地蔵盆だけでなく、初地蔵も行う地区がいくつかあります。

 

養老町大野も、そうした地区の一つで、先週の金曜日の夜7時から初地蔵が行われました。

 

ちなみに、初地蔵(はつじぞう)というのは、お地蔵さまにゆかりがある24日を、1年で最初に迎える1月24日に行う地蔵祭のことで、お盆の月である8月の24日に行う地蔵祭が地蔵盆です。

 

それほど長い時間ではありませんでしたが、提灯を飾り付けた一夜地蔵の前では、覚林寺のご住職により阿弥陀経が唱えられ、大野の人たちは一年間を健康に過ごせるようにお祈りされていました。

 

ただ、集まった方々の中に子どもの姿はなく、夏の地蔵盆で見かけるような子どもにお菓子を渡す風景を見ることはできませんでした。

お菓子は用意されていましたが、冬の寒い夜ではちょっとお参りしにくいですかね。

 

こうした初地蔵は、大野の他にも、養老町田や瑞穂などで行われているそうなので、来年以降も1年に1つずつおじゃまして、地区ごとでの違いなども引き続き調べてみたいと思います。

下笠輪中と根古地輪中の境。

2014.01.27

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養老町大野と根古地の大字の境には、下笠輪中と根古地輪中を分けた堤防の一部が残っています。

 

ということは、大野と根古地の境は、江戸時代から現在まで変化していないということですよね。

ただ、近所の方によると、昔の輪中堤は、現在よりもずっと高く、堤上には水屋などがあって、今とはずいぶん様子が違っていたそうです。

 

しかしそれでも、昭和34年(1959)の集中豪雨と伊勢湾台風後に、大野の集落の8割ほどが移転したことや、土地改良が実施されたことを考えれば、この輪中堤付近は、まだ昔の雰囲気がよく残っていると思います。

 

近くに寄られた際には、ぜひ散策していってみて下さい。

第30回新春茶会。

2014.01.24

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1月19日の日曜日に、養老町中央公民館で、養老町茶華道協会による新春茶会が開催されました。

 

今年度は、ちょうど協会創立30周年にあたり、新春茶会も30回目を迎えたそうです。

おめでとうございます。

 

節目の年ということで、協会の成り立ちなど、これまでのお話を伺っていたところ、もともと町の華道展に参加していた華道各流派の代表のほとんどに茶道の心得もあったことから、このメンバーを中心にお茶会を開いたことが創立のきっかけで、当初は20名ほどの会員数で発足したことを教えていただきました。

 

ちなみに、参加した茶道の流派は、表千家、裏千家、藪内(やぶのうち)流、松尾流、江戸千家の5つだったみたいですね。

 

現在の新春茶会は、このうち表千家、裏千家、松尾流が順番に席を設けており、今年は、裏千家による立礼(りゅうれい)式の席と、表千家による炉を切った席の二席が設けられていました。

来年は松尾流の席も設けられるそうです。

 

今年はいろいろと不作法をしたので、次までにもう少し作法を身につけておきたいと思います!

文化財の防火査察が実施されています。

2014.01.23

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26日の第60回文化財防火デーにあわせ、養老町でも、養老消防署による防火査察が実施されています。

 

上の写真は、その様子を撮影したもの。

文化財の管理状況や火気の取り扱い状況、電気配線の点検などについて、指導がなされました。 

 

査察は、明日も引き続き実施されます。 

 

今回、査察の対象となっていない文化財所有者や管理者の方々も、ぜひこの機会に文化財周りの再点検をお願い致します。

タギゾウくんの絵本シリーズ第7弾。

2014.01.22

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今年度に進めているタギゾウくんの絵本シリーズ第7弾のイラストがおおよそ完成しました。

 

タイトルは「タギゾウくんと不思議なようせい」になる予定です。

 

養老町の根幹をなす養老断層をテーマにしたお話で、タギゾウくんは妖精の不思議な力をかりて、タギの国に起きる地震の問題に取り組むことになります。

 

公開は、まだ少し先になりますが、ぜひ楽しみにお待ち下さい。

養老町最後の水騒動。

2014.01.21

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集中豪雨と伊勢湾台風による大災害のさらに2年前の昭和32年(1957)、五三川にかかる燈明橋付近で、養老町最後の水騒動がありました。

 

事の発端は、大雨で大量の水が一度に流れてくるのを恐れた養老町釜段の人たちが、水が流れてこないように上流で五三川を塞いでしまったこと。

これにより、さらに上流に位置し、主に五三川で排水を行っていた下笠輪中に水が溜まり、機動隊が出動する大騒動になりました。

当時、下笠側として騒動に参加した方によると、住民と機動隊がもみ合う事態になっていたみたいですね。

 

ちなみに、この騒動は最終的に話し合いで一段落するのですが、解決に時間がかかりすぎたため、そのとき既に水は引いてしまっていました。

 

結果だけみれば、騒動によって時間を稼ぎ、稲を水から守った釜段の作戦勝ちなんでしょうね。

桜井の代参選び。

2014.01.20

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徐々に少なくなってきていますが、養老町には、伊勢代参(いせだいさん)という行事が残っています。

 

ちなみに、伊勢代参とは、集落を代表して伊勢神宮に参拝し、集落の五穀豊穣や無病息災などを願うこと。

集落によって、違いもありますが、代参者を「くじ」で選ぶのは比較的共通しています。

 

上の写真は、そんな「くじ」の様子を、養老町桜井の白鳥神社で撮影させていただいたもの。

 

宮当番だけが集まり、宮役の方がふって出た紙に書いてある名前の方が当たりというものでした。

選ばれた人には、その後で知らされます。

 

私の住む西岩道では、全員が集まる中、自分でくじを引くので、その違いがとても新鮮でした。

ナンテンの白い実。

2014.01.17

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先日、養老町桜井にあるお宅で、白い実を付けたナンテン(南天)を見かけました。

 

ナンテンは、「難を転じる」縁起の良い木として、養老町でも人気で、現在でも玄関脇や庭隅などに植えられているのをよく見かけるのですが・・

 

赤いものが主で、白いものはあまり見かけなくなってきましたよね。 

40年くらい前には、私の家にも生えていて、喉が痛むと、南天の白い実を煎じて飲んでいました。

 

ちなみに、はっきりとは覚えていませんが、ほんのり甘い味がしたような気がします。

砂糖か蜂蜜が入っていたんですかね。

 

現在は、良い薬があるので、この先に煎じて飲む機会はないでしょうが、機会があれば、庭隅に植えてもう一度育てたいと思いました。

船附の沖積世基底礫層。

2014.01.16

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先日、養老町船附で地盤調査を行っていた方から、その周辺の沖積世基底礫層の深さが地表下約68mであることを教えていただきました。

 

ちなみに、沖積世基底礫層(ちゅうせきせいきていれきそう)とは、洪積世と沖積世の境界をなす堆積層のこと。

大雑把にいうと、約1万年前の地表面を形成していた土層のことになります。

 

これまで、養老町の沖積世基底礫層の深さは、おおよそ地表下50~70mの間に収まるものと勝手に思っていましたが、養老町でも東部に位置する船附で68mを測ることを考えると、町内には70m以上の深さに達しているところもあるかもしれませんね。

 

話しを聞く程度ですが、引き続き情報収集を続け、養老町の最終氷期を考える手掛かりにしたいと思います。

一夜地蔵。

2014.01.15

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養老町大野の覚林寺の西側には、一夜地蔵と呼ばれているお地蔵さまがいます。

 

養老町史によると、大正時代中頃のある夜、だれかが大野の堤防にお地蔵さんを置いていったため、一夜のうちに突然現れたことから、一夜地蔵と呼ばれているようです。

村の人からすれば、突然のことだったでしょうが、それでもお堂を建ててお地蔵さまを安置することにされたみたいですね。

 

現地を確認した時に、地元の方に少しお話を伺ってみると、地蔵堂は以前、大野村の堤防にあったようで、大野村が堤防の東から西に移るのに伴い、一夜地蔵を現在地に移したことを教えていただきました。

ただ、大野村が移動した時期や状況があまりはっきりと分からないので、もう少し調べてみる必要がありそうです。

 

ちなみに、お地蔵さまの足元の石台には「大野村内二 四十六」と書かれていることも確認できました。

なにか、お地蔵さまを知る手がかりになりますかね。

 

1月24日あたりに初地蔵が行われるそうなので、私もお参りに行って、もう少し詳しくお話を伺いたいと思います。

 

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桜井の粥占い。

2014.01.14

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養老町には、粥占い(かゆうらない)といわれる、小豆粥で、その年の作柄を占う風習が残っています。

 

大釜で小豆粥を煮る際に、竹の管を入れ、小豆や粥の詰まり具合を見て占うというもので、小正月の頃に、左義長とあわせて行われることが一般的ですが、作柄数や天候、全体運など、占う内容は、地区ごとにそれぞれ異なっています。

 

ちなみに、上の写真は、この月曜日に桜井区で行われた粥占いの様子を撮影したものです。

 

春作の部の、麻・小麦・紫雲英(レンゲ)・大豆・小豆・落花生・芋・甘藷(サツマイモ)の8品目と、夏作の部からの、山科・こしひかり・早生餅・日本晴・中生千本・初霜・晩生餅の7品目に、照りと総札を加え、全17項目が占われていました。

 

その結果は、総札が7分と、全体的には、去年よりも良い結果が得られていましたが・・

春作の部では、芋の2分など、やや不安の残る結果もでていました。

 

少し注意が必要ですかね。

広幡の由来。

2014.01.10

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養老町に広幡(ひろはた)という名称が生まれたのは、明治30年(1897)に、飯ノ木村・大跡村・口ケ島村・西岩道村・岩道村が合併して、広幡村が誕生したときでした。

 

その後、広幡村は合併して養老町になりますが、「広幡」の名称は、現在でも、地区名や小学校、公民館などに残されています。

 

そんな「広幡」の名称ですが、実はその由来は、村中が広く八幡神社の氏子であるからというものでした。

 

確かに、いわれてみれば、飯ノ木や口ケ島、西岩道の氏神様は八幡神社ですよね。

また、大跡の六社神社にも八幡神社が祀られています。

 

ただ、岩道の氏神様だけは、八幡神社ではなく、早扉(はやと)神社ですよね。

 

広幡の名称が生まれるとき、岩道の人たちがどのように感じたのか、ちょっと気になります・・

烏江の地名の由来。

2014.01.09

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養老町には、烏江(からすえ)という地名があります。

 

ちょうど、養老鉄道が牧田川を渡るあたりのことで、江戸時代には、ここで牧田川と杭瀬川が合流していて、烏江は川湊として栄えました。

 

ちなみに、烏江という地名の由来も、中国貴州省で南北2つの大きな川が合流する烏江(うこう)という場所と風景がよく似ていたために付いたとされているみたいですね。

 

現在、牧田川と杭瀬川は分流されており、烏江(からすえ)に烏江(うこう)の面影はあまり残っていませんが、近くを通りがかった際には、二つの大きな川が合流していた昔の烏江の様子も想像してみて下さい。

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