養老町の歴史文化資源の発見・普及を目指して設立した当ホームページは、「私たちが暮らす養老町への関心を喚起すること」を目的に運営しています。



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土屋輝雄の虎の絵。

2016.09.13

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先日、土屋輝雄さんの虎の絵を拝見する機会に恵まれました。

 

土屋輝雄さんは、養老町高田出身の日本画家です。

虎の絵については、戦争に行けなかった土屋輝雄さんが、戦地に行く人々にお守りとして描いて渡したものと聞いていましたが、

実物を見るのは今回が初めてでした。とても丁寧に描かれており、真ん丸の目が印象的です。

 

今回絵を見せていただいた方のお宅には戦争に行った人はおらず、祖父と輝雄さんが友人だったため譲り受けたのではないかというお話だったので、

虎の絵=戦争に関係するも のと考えるのは早計かもしれません。

今後も調査を続けたいと思います。

 

絵を見せていただいた方のお母さんが、外出するときは毎日、「土屋さん行ってきます(今日もお守り下さい)。」と手を合わせているそうです。

撮影のために一日借りてしまったので、とても申し訳なかったです。

鬼面山谷五郎の版画。

2016.05.27

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先日、養老町飯ノ木で、鬼面山谷五郎の版画を見せて頂くことができました。

 

鬼面山谷五郎は養老町出身で、明治のはじめに活躍した岐阜県唯一の横綱として有名ですが、養老町に残されている資料はあまり多くありません。

鬼面山谷五郎の母親が、所有者のご先祖にあたるそうです。

 

しっかりと記録をとらせて頂いたので、今後町のホームページなどで活用していきたいと思います。

「父、冨長蝶如を偲ぶ」

2015.09.01

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今日、日吉公民館で、養老吟詠会の秋季研修会として、冨長覚梁先生の講演会が開催されました。

演題は「父、冨長蝶如を偲ぶ」です。

 

ちなみに、「蝶如(ちょうにょ)」とは称号で、本名は冨長覚夢(とみながかくむ)。

養老町室原出身の漢学者で、18歳で服部担風先生の門に入り、大正の終わりから、たくさんの後進を育てました。

 

講演では、息子である覚梁先生の話ということもあり、直接ご本人にお会いしたことのない私でも、蝶如先生を身近に感じることができました。

中でも、新たな発見だったのが、蝶如の号が、荘子の胡蝶の夢に由来していたことと、蝶如先生の座右の銘が、「遭いがたくして遭うを得たり。聴きがたくして聴くを得たり。」だったこと。

 

いろいろな意味があるんでしょうが、改めて、蝶如先生にとって服部担風先生との出会いが人生を大きく変えるものであったことを知ることができました。

土屋写真館の広告。

2014.03.12

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先日、土屋ちかさんが経営していた写真館の広告を見る機会に恵まれました。

 

 ちなみに、土屋ちかさんとは、養老町高田出身の日本画家である土屋輝雄さんのおばにあたる方で、土屋輝雄さんの母代わりでもあった人物。

 

大正から昭和の初め頃の、まだ写真が珍しい時期に、写真屋の女主人を務めたことからも分かるように、たいへんな女傑であったみたいですね。

また、ハイカラで、馬に乗っていたという話も残っています。

 

そんな武勇伝の多いちかさんですが、私もこの広告に数百年以上の耐久性があるというプラチナプリントが含まれているのをみて、改めて、土屋ちかさんが評判どおりの人物であっただろうと思えるようになりました。

吹原家が寄進した鳥居。

2014.03.03

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濃州三湊の一つである烏江湊で、代々舟問屋を務め、大きな経済力を誇ったとされる吹原家ですが、最近、隣町である垂井町の南宮大社に石鳥居を寄進したのが、この吹原家であるという話を聞くことができました。

 

ただ、町史などには記述されていない話だったので、その由縁を確認してみたところ、どうも石鳥居に吹原の名が刻まれていることがその根拠になっているみたいですね。

 

そのため、早速、先週の休みを利用して、現地を確認してきたのですが・・

どこに刻まれているのかよく分かりませんでした。

 

今度は、情報提供者に同行いただいて、再チャレンジしたいと思います。

流された橋の木材。

2014.02.13

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昭和10~20年代頃、台風で大雨が降り、牧田川に架かる木製橋が流されると、堤防には朝早くから多くの人が集まってきました。

 

目的は上流から流されてくる木材を引き上げるためです。

 

どうも、この頃木製橋に使用されていた建築部材は良質なものであり、さらに加工もなされていたため、そのまま建物の修理などに使用することができ、大変貴重であったみたいですね。

 

朝から早い者勝ちで引き上げていき、持ち帰って畑などに隠したそうです。

 

ちなみに、この木材競争で有利だったのが、牧田川の北岸の集落でした。

養老町では台風は西から東に抜けていくため、台風が過ぎた後は南風が吹き、流された木材の大半は、北岸に引っかかっていたためです。

 

上の写真は、そんな競争の激しかった場所の一つである養老町橋爪付近の牧田川北岸を撮影したもの。

このあたりでは、主に広瀬橋が流されてくるのを狙ったみたいですね。

 

当時の橋爪は、象鼻山を所有しており、他の村に比べて木材には恵まれていたはずですが・・

この話を聞いて、改めて当時の人たちにとって山の資源がいかに重要であったかを感じることができました。

養老町最後の水騒動。

2014.01.21

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集中豪雨と伊勢湾台風による大災害のさらに2年前の昭和32年(1957)、五三川にかかる燈明橋付近で、養老町最後の水騒動がありました。

 

事の発端は、大雨で大量の水が一度に流れてくるのを恐れた養老町釜段の人たちが、水が流れてこないように上流で五三川を塞いでしまったこと。

これにより、さらに上流に位置し、主に五三川で排水を行っていた下笠輪中に水が溜まり、機動隊が出動する大騒動になりました。

当時、下笠側として騒動に参加した方によると、住民と機動隊がもみ合う事態になっていたみたいですね。

 

ちなみに、この騒動は最終的に話し合いで一段落するのですが、解決に時間がかかりすぎたため、そのとき既に水は引いてしまっていました。

 

結果だけみれば、騒動によって時間を稼ぎ、稲を水から守った釜段の作戦勝ちなんでしょうね。

山田貞策さんの情報を追加しました。

2013.12.27

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当ホームページの「郷土の先人」のコーナーに、新しく山田貞策さんの情報を追加しました。

 

昨年からの課題だったので、今年中にはなんとかと思っていたのですが・・

結局ぎりぎりの対応になってしまいました。

 

それに、その幅広い活躍から、ちょっと文章が長くなってしまっていますね・・

また、少し時間をおいて、読みやすくなるように修正したいと思います。

 

さて、養老町役場も今日で仕事納めになりました。

仕事始めは6日(月)からになります。

 

来年も、引き続き、当ホームページをよろしくお願い致します。

 

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鬼面山谷五郎の灯明。

2013.12.26

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養老町鷲巣の白山神社の境内に、養老町出身で、岐阜県で唯一の横綱である鬼面山谷五郎が寄進した灯明があります。

 

文久元年(1861)に、三役に昇進した鬼面山が、故郷である養老町で父親の追善相撲を催した際に、寄附されたものみたいですね。

確か、故郷に戻った鬼面山が、水害で困窮していた鷲巣の住民に十両を配ったという出来事を記録した古文書の年代も、文久元年だったと思います。

 

根拠となった資料を見たことがないので確かなことは分かりませんが、ひょっとしたら、灯明と十両の寄附は一連の出来事だったのかもしれませんね。

「読書百遍」の石碑。

2013.11.29

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上多度小学校の中庭に、「読書百遍」と刻まれた石碑があります。

 

これは、上多度小学校図書館の設立15周年となる昭和40年10月に、当時の親御さんたちが、水谷三郎さんに感謝を込めて建立したもの。

 

当初は、上多度小学校の校庭側の校門を入ったところに建てられ、児童達は毎朝この碑を目にしながら登校していましたが、新校舎が整備された昭和55年頃に現在の場所に移されました。

 

それにしても、「読書百遍」という言葉で、いかに水谷三郎さんが母校の子ども達の読書習慣の定着を願っていたかが分かりますよね。

 

そして、その願いは、昭和53年7月に三郎さんが亡くなられてからは、長男の和郎さんによって引き継がれました。

 

ただ、和郎さんにとって水谷賞の継続は、先行きに不安がある中での大きな決断だったようで、50回を記念して発行された冊子の中で、当時のことを「取敢えず可能なところまで続けようと心に決めて父の遺志を引き継いだ」と振り返っておられます。

 

しかし、そんな和郎さんの水谷賞は今年で36回目を迎え、三郎さんの14回をはるかに上回る回数となりました。

 

上の写真は、そんな思いがこもった「読書百遍」の碑が建立されたときに、石碑の前で、水谷三郎さん(左)と水谷賞創設を提案した安福彦七校長(右)を撮影したもの。

 

二人にも水谷賞が50回目を迎えたことを伝えたいですね。

山口俊郎先生の三十三回忌法要。

2013.11.26

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昨日、養老町高田出身の音楽家である山口俊郎先生の三十三回忌法要が専念寺で行われました。

 

山口先生は、昭和56年に80歳で他界されるまで1000曲以上の作品を手掛けた人物。

亡くなられる直前には作品の著作権を養老町に寄贈したり、山口記念会館を建設したりされていて、地元の方々はたいへん喜んだそうです。

しかし、ご本人は「生まれ故郷の土に帰るための置き土産」と淡々と語られたみたいです。

そして、そんな山口先生が亡くなられた2年後、養老町には山口俊郎先生顕彰会が設立されました。

下の写真は、そんな顕彰会が設立した年の11月25日に行われた慰霊祭の様子です。

たくさんの参列者の中には、三橋美智也さんの姿も見え、改めて山口先生の人柄が偲ばれますね。

引き続き、功績の顕彰に勤め、50回忌も大勢の方に参列していただけたらと思います。

 

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幼い者に知慧の場を。

2013.11.21

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昭和25年(1950)に水谷三郎さんが母校である上多度小学校へ本の寄贈をはじめたことをきっかけに、昭和39年(1964)に創設された水谷賞の授賞式が、今年で50回目を迎えました。

 

ちなみに、水谷賞とは、上多度小学校の全児童が参加する読書感想文コンクールのことです。

上多度小学校では、これを記念して冊子も作成されており、その中には、昭和29年(1954)1月21日に上多度小学校図書館が東海三県学校図書館コンクールに入賞した際に、水谷三郎さんから寄せられた原稿が再掲載されていました。

 

そのタイトルが「幼い者に知慧の場を」です。

 

少し長いので、全ては引用しませんが、「私は幼い者たちが、大人になって世の荒波にもまれるまでに、できるだけ多くの文学や歴史や絵、そしてできれば美しい音楽に親しみ、科学的教養とともに、文化的教養を積み重ねられるような素地をつくっておいてほしい」という水谷三郎さんの言葉がとても印象に残りました。

また、最後は、「内容や外観をもっと整えて、次の機会にも輝かしい栄誉を荷い続けることも大切でしょうが、本当に幼い人たちに、知識とともに、知識でない知慧になるような役割を、此の図書館が果たすことを切に祈ります」という言葉で締めくくられていました。

 

こうした学校独自の取り組みが50年間続くことが、まずすごいと思いますが、ひき続き、上多度小学校には、水谷三郎さんの願いを大切に守っていっていただきたいです。

「山田貞策さん」PDFデータの公開。

2013.11.08

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『みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん』のPDFデータを電子書庫に公開しました。

 

養老町大巻の排水機設置をはじめ、池辺村村長を務めたり、八沢浦の干拓を行ったり、薩摩義士顕彰会を設立したりと、様々な事業に取り組んだ山田貞策さん。

この本の第7章には、そんな貞策さんの素顔について、子孫の方から伺うことができたお話も掲載しています。

 

読んでいただければ、きっと、山田貞策さんの生涯をまとめた冊子が、このタイトルになった理由が分かっていただけると思いますので、ぜひ一度、目を通してみてください。

土屋輝雄の竹の襖絵。

2013.11.06

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千歳楼旅館の客室の一つに、「竹の間」という竹をモチーフにした八畳の和室があります。

 

昭和初期の造りで、天井や床の間、障子など細部にまで竹があしらわれており、とっても魅力的な部屋なのですが・・

ご主人によると、当初の襖絵は、養老町高田出身の画家である土屋輝雄によって描かれたもので、現在のような細い竹ではなく、とても太い竹が描かれていたそうです。

 

その当時の「竹の間」の様子を撮影した貴重な写真が上の一枚。

太いとは聞いていましたが、すごい迫力ですよね。

 

改めて、土屋輝雄のすばらしさを感じるとともに、千歳楼が多くの文化人に愛されてきた理由が分かるような気がしました。

岡本喜十郎懸賞文。

2013.09.13

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昭和4年(1929)、まだ養老町高田に小学校があった頃に、小学校6年生が岡本喜十郎について書いた作文を見る機会がありました。

 

 岡本喜十郎は、千歳楼の創始者で養老公園開設の礎を築いた人物ですが、養老町高田の出身だったので、高田尋常小学校で、その功績を詳しく教えていたんでしょうね。
58名もの応募があり、中には原稿用紙4枚にもわたって、岡本喜十郎の功績をまとめている子もいました。

 

内容としては、岡本喜十郎が、いかに養老町の発展に貢献したかということや、その生涯について熱心に書いたものがほとんどでしたが、一部に、「牧田川堤防に忠魂碑と相対して」「元文五年高田町の水害地なる島田裏の乗越堤上」「北河原」「高田尋常小学校の教室から北方を望めば忠魂碑の西に見える」といった、昭和3年(1928)に高田町青年団によって建てられた、岡本喜十郎翁顕彰碑の元位置に関する情報もありました。

 

岡本喜十郎翁顕彰碑の元位置が、高田の旧牧田川堤防上であったことは間違いないと思いますが、その正確な場所がよく分かっていないので、ひき続きこうした情報も手掛かりにして、調べていきたいと思います。

「みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん」一般販売。

2013.08.12

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養老町大巻出身で、薩摩義士顕彰会の設立をはじめ、様々な社会貢献を行ってきた山田貞策さんの生涯をまとめた冊子が完成しました。

 

明日から、60冊限定で、一般販売を開始します。

金額は800円です。 

購入を希望される方は、養老町教育委員会生涯学習課(0584-32-5086)へご連絡ください。

受付時間は平日の8:30~17:15になります。

 

「薩摩義士の如き産業上の献身者こそ、真の義士の模範となすべき」と考えた山田貞策さん。

この冊子を読めば、山田貞策さんこそが、この言葉の最も忠実な実践者であったことが分かっていただけると思います。 

 

なるべく平易な文章を用い、読みやすいものにしてありますので、ぜひ目を通してみて下さい。

 

なお、この冊子は、将来電子書庫でも公開する予定があります。

岡本村吉。

2013.08.07

murakitikoseki.JPG明治の終わりから大正の初めにかけて、豆馬亭の東の「うしろ谷」で、大変貧しい生活を送っていたという岡本村吉ですが、この方が四代目岡本喜十郎の長男であったことがわかりました。

 

血縁がなかったというのは、間違いだったみたいです。

ちなみに、天保14年(1843)12月10日の生まれでした。

 

いまさらですが、四代目喜十郎の幼名は才吉で、さらにその父の名は勇吉。

村吉という名前で、その可能性に気づくべきでしたかね・・

 

 この他に、養老町の白石にお墓があるという情報もあるので、近いうちにこちらも確認に行こうと思っています。

 

 

 

 

 

「みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん」校了。

2013.07.31

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養老町教育委員会で作成を進めている山田貞策さんの生涯をまとめた冊子ですが、ようやく今週校正を終了することができました。

来月13日の薩摩義士慰霊法要に間に合いそうで、ほっとしています。

 

養老町大巻に日本で初めて水車式排水機を設置したり、池辺村村長を務めたり、薩摩義士顕彰会を設立したりと、様々な事業に取り組んだ山田貞策さんですが、本書には、それらの功績だけでなく、子孫の方からお話しを伺うことのできた貞策さんの人柄などについても掲載することができました。

 

8月13日以降、関係機関に配布を開始し、希望者には販売も行う予定です。

また、少し時間はかかるかもしれませんが、電子書庫でも公開します。

 

みなさんも、ぜひ一度、目を通してみてください。

きっと、養老町にこんな人がいたということに、驚くと思います。

みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん。

2013.07.09

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現在、養老町教育委員会では、山田貞策さんの生涯をまとめた冊子を作成しています。

 

冊子の名称は、「みんなが喜ぶことに力を尽くした山田貞策さん」です。

幅広い活躍をされた方なので、なかなか名称が決まらなかったのですが、お孫さんの「人の喜ぶことが好きだった」という一言が決め手になりました。

 

完成までは、まだもう少し時間が掛かりそうですが、ぜひ楽しみにお待ちください。

忍の一字。

2013.07.02

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今日、山田貞策さんが座右の銘としていた「忍」の一字の直筆を見せていただくことができました。

 

かたときも 忘れてならぬ この一字

皇紀二千六百三年 喜寿叟柳坡

 

と書かれていますね。

 

亡くなる前年である昭和18年(1944)に、喜寿を迎えて書かれたんだと思います。

 

ご子孫の方によると、貞策さんはいつも「忍だ。忍だ。」とおっしゃっていたそうですが、まさに貞策さんを表すのにふさわしい一字ですよね。

 

今日撮影させていただいた写真は、現在、養老町教育委員会が作成を進めている冊子の裏表紙に使用させていただく予定です。

ぜひ、完成を楽しみにお待ちください。

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