大巻仁保(おおまきにいほ)。
2012.03.28
養老町大巻には、仁保と呼ばれている地区があります。
前から、ちょっと読みにくくて、変わった地名だなとは思っていたのですが、最近その由来が、小字にあることを教えていただきました。
聞くところによると、仁保という地名は、大巻の小字が、イの割、ロの割、ハの割といったようにイロハで「カ」まで続くうち、「ニの割」と「ホの割」のカタカナを、それぞれ漢字の「仁」と「保」に充てて仁保としたそうです。
ウソみたいな話ですよね。
話を聞いたとき、すぐには信じませんでした。
ですが、複数の人に確認したところ、事実であるようです。
そして、まずは昭和35年頃から行われた土地改良によって、生まれた地名なのかと考えたのですが・・
すでに明治末期の「大巻土地台帳」に、その地名が出てくるみたいですね。
いったい、いつから大巻仁保なのか?
もう少し詳しく調べてみたいと思います。

養老山妙見堂。
2012.03.08
養老公園内にある「養老山妙見堂」は、江戸時代初期、当地に干ばつが続いたとき、雨乞いの霊場として開かれました。
その後、堂宇と妙見様(開運北辰大菩薩)は、明治の養老公園設立に伴い建立・勧請され、お釈迦様(立像釈迦牟尼佛)は大正9年(1920)から祀られるようになったそうです。
ただ、堂宇は昭和37年(1962)に一度倒壊したようで、昭和53年に都市公園法をクリアして本堂の再建がなされるまでの間、堂宇がなかった時期があるみたいですね。
そんな、妙見堂では、毎月8日の10時30分から、お釈迦様、妙見様のお開帳の後、唱題修行・法話が行われています。
また、来月の8日、午前10時30分からは「花祭り」も開催されますので、ぜひ妙見様とお釈迦様の参拝に、養老公園を訪れてみてください。
田代神社の跡地
2012.03.02
養老鉄道「美濃高田駅」の線路東、やや南側に小さな祠があり、ここにかつての田代神社があったとされています。
小字が「古宮(ふるみや)」なのも、このためだと考えている人が多いみたいですね。
このことについては、田代神社誌にも触れられていて、この位置から現在地に遷座したのは、慶長6年(1601)12月26日のことで、度重なる水害に耐えかねたことが契機だったようです。遷座に際し、ご神体を背負って運んだのですね。
さらに、新たに遷座した場所は、現在摂社になっている神明神社の境内だったみたいです。
もっと、詳しいことが知りたい方は、電子書庫で「田代神社誌」を公開していますので、そちらを参照して下さい。
また、田代神社跡地については、「タギゾウくんの養老ナビ」に登録してあります。
よろしければ一度現地を訪ねてみて下さい。
白石村跡。
2012.02.13

今日、地元の方々に、養老町の白石区を案内して頂くことができました。
当初の目的は、白石区にあった水車小屋の位置確認だったのですが・・
それ以外にも、白石古墳に関する情報や、白石薬師堂の付近にあった旧白石村のことを教えて頂きました。
中でも、白石村が現在の場所に移動する契機が、宝永年間(1704~1710)の山地崩壊により水路が断たれたことであり、それまではまぐさの滝のある柏尾谷から水を得ていたことや、移動後の白石が、今度は養老の滝のある滝谷から水を得るようになり、その権利を持っていた島田村と深い関わりをもつようになったことは、とても参考になりました。
やはり、地元の方に現地を案内して頂くと、新しい発見がありますよね。
今日の発見を踏まえ、改めて白石薬師堂の周辺に広がる、平坦面や石垣、溝などの遺構を再検討する必要がありそうです。
大跡の六社神社跡。
2012.01.18

養老町大跡(おおあと)の六社神社は、伊勢湾台風後、区画整理により現在の位置に遷宮されました。
そのため、現在の位置から南600mにある跡地には、六社神社跡と刻まれた石碑が建てられています。
ここで一つ気になるのが、この石碑の周囲で採集できる中世の遺物。
少量なのですが、土器皿や山茶碗と呼ばれる無釉の陶器が確認されていて、周囲は遺跡にも登録されています。
さらに、養老町史資料編上に掲載されている足利義満袖判御教書案(1403)には、「多藝庄内大跡」の記述も。
そのため、この位置が、中世の大跡であった可能性が高いような気がしますが・・
今のところ、未確認です。
この石碑は、「タギゾウくんの養老ナビ」にも登録してあります。
気になった方は、ぜひ現地を訪れてみて下さい。
ただ、石碑は畦道沿いに建てられているため、ルート案内は近くの道路で終了してしまいます。
残りの300~400mは自力ということになりますので、ご注意下さい。
牧田川・杭瀬川分流工事。
2011.12.09

養老町烏江の、牧田川と杭瀬川の間の堤防上に、上の写真の石碑が建っています。
これは、もともとこの場所で合流していた牧田川と杭瀬川の分流工事(高渕抜工事)完成を記念して建てられたものです。
新しい川を開鑿し、2本の川の間に新しい堤防を造ることで分流しました。
牧田川の河床の急激な上昇により、大雨で出た水が、ここで杭瀬川に逆流し、上流の村々に多大な被害をもたらしてきたことが原因です。
その歴史は近世にまでさかのぼり、薩摩義士で有名な宝暦治水工事でも計画に入っていましたが、周辺地域の利害関係を調整できず、このときは実現できなかったようです。
そして結局、この長く懸案であった問題を解決し、工事を完成することができたのは、昭和25年3月のことでした。
約2.8kmも下流の養老町船附まで合流地点を下げることに成功しています。
ただ、工事は、日中戦争・第2次大戦による中止や、物価高、資材や労力の不足など、多大の苦心苦労があったみたいで、工事に携わった古老の言葉に「高渕抜、命をかけてよくやった」とあります。
なお、この石碑は昭和34年の集中豪雨で、一度川底に沈み、その後建設省(現在の国土交通省)に引き上げられたこともありました。
さらに、このあたりの養老町と大垣市の境が入り組んでいるのも、この杭瀬川の旧流路が原因です。
この石碑の位置は「タギゾウくんの養老ナビ」にも情報登録してあります。
ぜひ一度、足を運んで、当時の風景を思い浮かべてみて下さい。

多岐神社の位置。
2011.10.25

先日、多岐神社に伺ったとき、「多藝郡髙畑村地引絵図」を見せていただくことができました。
明治10年4月に作成されたもので、上側が西になります。
ちなみに、髙畑村は、絵図のように牧田川が南北に分流する地点に位置していた村です。
明治22年に合併して、多芸村になりました。
そして、ぼくが、この絵図をみると、いつも気になるのが、牧田川が南北に分流する位置にあった1番地。
かつてはここに、多岐神社があったそうです。
つまり、少なくとも多岐神社は、最初から今の位置にあったわけではないということですよね。
しかし、今の多岐神社の境内には、如法経塚と呼ばれている町史跡があり、そこには文治5年(1189)の銘をもつ如法経碑が・・
そしてさらに、神社には、如法経そのものも保管されています。
まだまだ分からないことばかりですが、どうやら多岐神社は、ずいぶん複雑な過程を経て、今に至ったようです。

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